太田道灌の逸話

◆あれなんだっけ 備亡録◆

七重八重 花は咲けども山吹の 蓑一つだに無きぞ悲しき


平安末期に江戸城は起こり、台頭してきた江戸氏の居館として繁栄したが、鎌倉時代になって関東菅領の反抗派として反乱に加わるも敗れ、江戸氏の衰退とともに、江戸城は廃墟と化したようである。
室町中期、関東管領・扇谷上杉氏の執事として仕えた太田資清の子である資長も親子して上杉氏に仕えた。足利成の享徳
の乱に際し、北関東の古河公方に対する江戸から川越に至る戦略防衛ラインとして、長禄元年(1457)資長(道灌)は江戸城を築城した。長禄元年(1457)川越城は太田道真の縄張りて゜築かれ、時を同じくして、東方二十キロの地にその子資長(道灌)は岩槻城を構築。長禄二年(1458)仏門に帰依して以降「道灌(どうかん)」の号を用いた 江戸城は文明十八年(1486)主君 上杉定正に暗殺されるまで道灌の居城であった。

戦国武将であり、歌人でもある太田道灌(1432〜1486)が、現在の埼玉県入間郡越生町(おごせまち)あたりで鷹狩の最中に俄(にわ)か雨に会い、近くの農家で蓑(みの・・ワラでできた雨具)を借りようと立ち寄ったが、農家の娘 紅皿(べにざら)は庭に咲く一枝の山吹を差し出した。蓑を借せといったのに、花の小枝などを差し出し、なんと無礼な娘かと怒り心頭に達し、その意が分からぬまま道灌は、屋敷に帰ってしまったようである。

当時の道灌は、武勇の名声は高かったものの、学問・風流は解せなかったようである。
後日、家臣から「実のと蓑」が掛けられていたことを教えら、「後拾遺和歌集」に「七重八重 花は咲けども山吹の 実の一つだに泣きぞあやしき」という和歌があり、貧しくて差し出す蓑も無いことを、暗に、花が咲いても実のつかない山吹にたとえ、一枝の山吹を差し出し、ゆかしく断られたことを知る。

そうして詠んだ歌が、有名な 「七重八重 花は咲けども山吹の 蓑一つだに無きぞ悲しき」といわれている。

道灌は無知・無学を恥じ、、江戸城に紅皿を呼び入れ、共に和歌に精進したという。
道灌の死後、紅皿は尼になったという。

しかし、なぜ貧しい農家の娘がそんな古歌を知っていたのか疑問が残るところではある。
また、道灌は九才から十一歳まで、当時の最高学府といわれた鎌倉五山(建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺)に学び、記憶力抜群の秀才であり、その評判ぶりは、鎌倉五山の僧侶たちの間で評判となっていた。
にもかかわらず、兼明親王の歌を知らなかったというには不自然さが残る。この点おそらく、後世の説話であろうと推測されている。

<注記 ふりがな>

関東菅領(かんとうかんれい) 資長(すげなが)・・・剃髪後、道灌(どうかん)と号す
扇谷(おおぎがやつ) 足利成氏(あしかがなりしげ)
執事…菅領の補佐役 上杉定正(うえすぎさだまさ)
資清(すけきよ)・・・道灌の父道真の名 兼明親王(けんめいしんのう)


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